政宗が「奥州の宇治」と自慢した富谷茶 30軒から1軒に

記者:富谷トム・・最終更新 2026年9月13日・読了目安 5分
丘陵地に畝が連なる緑の茶畑
茶栽培の関連イメージ。写真は京都府和束町の茶畑で、富谷茶の実景ではありません/写真:にっしーな/ぱくたそ
この記事の目次

江戸時代、奥州街道を歩く旅人が口にした歌があります。奥道中歌です。

国分の町よりここへ七北田よ
富谷茶飲んで味は吉岡

仙台の国分町を出て、七北田を過ぎ、富谷で茶を飲む。歌に土地の名物として詠まれるほど、富谷は茶の産地でした。いまスーパーの棚に富谷茶は並んでいません。何があったのかを、市の資料からたどります。

政宗が京都から苗木を取り寄せた

市の広報の特集によると、富谷茶の発祥は、仙台藩祖の伊達政宗が京都から苗木を取り寄せ、領内で栽培させたことに始まるとされています。

なぜ政宗が茶に着目したのか。特集では、民俗ギャラリー学芸員の清水勇希が「政宗公が活躍した戦国時代は、豊臣秀吉や織田信長などが天下を握り、茶は武将の外交戦術の一つだった」と述べています。千利休が秀吉の側近として茶を武器に政治の世界で動いた時代です。茶を持つことは、単なる嗜好ではなく力の一部でした。

仙台藩における茶栽培の最も古い記録は、元和3年(1617年)の政宗の書状です。仙台藩で栽培した茶一袋を贈るときの添え状で、政宗はそこに「これからは『奥州の宇治』と呼ばれるだろう」と冗談めかしつつ自慢しています。

宇治は当時も今も日本の茶の代名詞です。開府して間もない藩の主が、自分の領内の茶を宇治になぞらえた。学芸員の清水は「政宗公が仙台を開府し、新しい国づくりの産業政策の一つとして、茶栽培に力を注いだのではないか」と見ています。開府とともに奥州街道を整備し宿場を開設していく過程で、富谷宿と富谷茶は一緒に育っていったという見立てです。

富谷宿は茶畑に囲まれていた

富谷宿の開宿から130年後の記録には、富谷宿は茶畑に囲まれ、茶が名物として知られ、茶店も多かったと記載されています。

売り先も広がっていました。特集によれば、富谷茶は藩主に献上され、茶どころである京都にまで出荷され、盛岡藩との取引記録も残っています。学芸員の清水は「茶生産はかなり隆盛を極めたようだ」と話しています。産地から遠く離れた京都へ運ばれた茶が、街道の歌に残るほど旅人に知られていたわけです。

30軒、1軒、ゼロ

その後の経緯は、数字を並べると急な下り坂です。

時期 生産の状況
元和3年(1617年) 仙台藩の茶栽培の最も古い記録。政宗の書状に「奥州の宇治」
富谷宿開宿から130年後 宿は茶畑に囲まれ、茶が名物。茶店も多かった
明治〜大正 生産農家は30軒ほど
昭和30年頃 わずか1軒。旧脇本陣の旅館「氣仙屋」が自家用に製茶するのみ
昭和40年代 その製茶も終わり、幻の銘茶となる
2017年(平成29年) 市とシルバー人材センターが復活プロジェクトを開始
2023年9月14日 スローフード協会の「味の箱船」に日本で75例目として登録

最後に残った1軒が旅館だったことには理由があります。氣仙家はかつて参勤交代の一行を宿泊させる脇本陣で、昭和50年代まで旅館を営んでいました。特集で当主の三女・厚子さんは「氣仙家が製茶を続けてきたのは、家業に必要だったから」と語っています。客に出す茶を自分の畑から作る。それが途絶えた最後の糸でした。

氣仙家では毎年5月が茶とみそづくりの恒例行事で、真っ白で大きな木綿袋が用意されると茶摘みが始まる合図だったといいます。近所の人にも手伝ってもらい、一番茶60キロを収穫し、祖母のつねよさんが製茶をしていました。作業小屋には茶葉を蒸すかまどと手もみで乾燥させる炉があり、当時は炭火。その火加減が難しかったと振り返っています。

残った茶畑から

幻になったあとも、氣仙屋の茶畑は一部が残りました。特集は「代々続いた富谷茶を途絶えさせてはいけない」という思いで、有志の手で茶畑が守られてきたと書いています。

市がその在来種に手をかけ始めたのが2017年です。市の資料では、市シルバー人材センターなどと連携して「富谷茶復活プロジェクト」に取り組んできたとされています。茶畑は氣仙屋茶畑(富谷市富谷清水沢125番地)で、しんまち通りの南にあります。

製茶は機械任せではありません。茶舗「大竹園」の指導を受け、手もみで行われています。摘み取りは新芽から数えて3葉のところで摘む「一芯三葉」。爪を立ててちぎると茎が赤く酸化してしまうため、折るように摘みます。摘んだらすぐ、蒸し時間を秒単位で測りながら高温で蒸し上げる。何秒蒸すかは茶葉の状態を見て決める職人の判断です。

市の記者会見資料によれば、2023年の茶摘み式は5月17日午前9時から30分間、氣仙屋茶畑で行われました。主催は公益社団法人富谷市シルバー人材センターです。駐車場は富谷宿観光交流ステーション「とみやど」に用意され、そこから茶畑へ案内される形でした。式のあとは、シルバー人材センターの会議室で製茶作業が行われています。

2023年、世界のリストに載った

2023年9月14日、富谷茶は「味の箱船」に登録されました。日本で75例目です。

味の箱船とは、市の説明では、伝統的な在来品種や加工食品など、このままでは消えてしまうかもしれない小規模な生産者による食材を、国際組織のスローフード協会が世界的なガイドラインで選定し、その生産や消費、地域における食の多様性を守ろうという取り組みです。

つまり富谷茶は「消えかけている」ものとして国際的に登録されました。裏を返せば、まだ消えていないということでもあります。市は今後も新しい特産品として、在来種の生産量増と商品開発に取り組む予定としています。

見に行くなら

氣仙屋茶畑は富谷市富谷清水沢125番地、しんまち通りの南にあります。周辺には富谷宿観光交流ステーション「とみやど」があり、駐車場として使われています。茶摘み式は例年5月です。

もう一つ、しんまちに残っているものがあります。氣仙家の室町様式の母屋は昭和52年4月に解体され新築されましたが、明治天皇が東北巡行のときに休息した奥座敷は、今も一部が残されています。脇本陣という言葉が現実に立っていた場所です。

この記事の内容は、広報とみや2020年7月号(No.642)の特集、市の記者会見資料(令和5年4月26日)、市役所資料(令和5年11月13日)、富谷しんまちプロジェクトの富谷茶のページから整理しました。

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